dreamfact0ryのブログ

映画を勉強中。物置として使う。由来はプリンスの没アルバムから。

論文 『逆転の喜劇』

一、はじめに
1930年代から70年代の喜劇映画は、現実を逆転させた虚構世界に真実を写しているのではないかと考えた。これからその特徴と移り変わりをたどる。
二、変人喜劇とフランク・キャプラ
スクリューボール・コメディというジャンルがあった。それは奇異な登場人物たちが荒唐無稽な喜劇を演じる。そこに恋に盲目なヒーローが、ヒロインに振りまわされてなんとか恋愛を成就させる構成のジャンルだ。それに加えて〈畳みかけるような台詞〉、〈突飛な行動〉が特徴である。
 その走りとなったのが、『或る夜の出来事』(フランク・キャプラ,1934)はその草分け的作品だ。令嬢エリーは海に飛び込んで逃げだしたり、結婚式を逃げだしたりをするおてんば姫。そこに、酔っぱらいかと思いきや紳士のピーターや、結婚に反対していたが結局は賛成してまた反対する父親といった変人たちのやりとりがくりひろげられる。
また、たんなる掛け合い漫才に終始するのではなく、 <ジェリコの壁>のような規制への対決と男女の生々しい性が明示されることによって幾分か現実味のする夢を描いている。
三、逆転のハワード・ホークス
 ハワード・ホークスは多くの作品を手掛け、ジャンル映画を支えてきた。
彼が多く監督した西部劇のヒーローたちは銃に長け、喧嘩も強い。だが、『リオ・ブラボー』(1959,ハワード・ホークス)にみられるように、恋愛となると奥手になる。暴力なしの現代社会を舞台とした作品において男性も女性も変わらない。むしろ、女性のほうが恋愛に長けているから勝っている。これまでの映画における性の立場を逆転させたのだ。
加藤哲郎は『映画ジャンル論―ハリウッド映画史の多様なる芸術主義』(文遊社、2016年)において、「女性側からの男性に対する定型逆転」(P509)と表現している。
赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス,1938)は学者を演じるケーリー・グランドが令嬢にひたすら振りまわされるという典型だ。そこに豹の赤ちゃん、口うるさい叔母、自慢話ばかりする老人といった登場人物が加わった、変人しか出演しない作品だ。
また、のちのスクリューボール・コメディにも多々みられる性別を脅かす、服装倒錯的場面がでてくるのに注目したい。ネグリジュを着たケーリー・グランドが困惑気味に「僕はゲイになってしまった」という台詞はまさしく男性性の喪失に対する恐怖が表されている。
ヒズ・ガール・フライデー』(ハワード・ホークス,1940)は正常な人間が要所に配置されていて、以前の『赤ちゃん教育』よりも釣り合いのとれた作品になっている。しかし、内容はというとキリスト教圏内にも関わらず描かれる自殺未遂、ヒトラー、政治、マスメディアをさりげなく風刺しているところは巧みである。ここでの逆転はまさしくヒルデガードが、もとはヒルデブランドという名の男性であったことにあるだろう。
『モンキー・ビジネス』(1952,ハワード・ホークス)はこれまでの総括のような仕上がりになっている。チンパンジーが新薬を開発し、大人が幼児退行をして大人びた子どもたちにたしなまれるといった逆転がつまっている。だが、なんといってもあのマリリン・モンローが出演しているのが一つの目玉である。
マリリン・モンローはジェーン・ラッセルとともに『紳士は金髪がお好き』(1959,ハワード・ホークス)で主役を演じている。この二人に対して男性はみな骨抜きなのだが、唯一まともに接することができるのは少年大富豪のみという逆転が『モンキー・ビジネス』との共通点だろう。
また本作は強調された性を風刺している。マリリンのかつらのように不自然な髪や唇といった過度な化粧は性倒錯者のように見える。ラッセルが濃い化粧をして異装をするさまは男が女に化ける、ドラッグ・クイーン的な場面にみえるし、ラッセルに目もくれないボディ・ビルダーは同性愛的描写である。
四、ビリー・ワイルダーと隠されたテーマ
 『お熱いのがお好き』(1959,ビリー・ワイルダー)はまさにそのテーマを扱った作品である。トニー・カーティスジャック・レモンが女装をしてギャングから逃走するのだが、陰惨な描写が多い。酒を密輸する霊柩車とのカーチェイスに、機関銃で人が穴だらけになる場面が二回もある。
そうした中で、先述の女装した二人がモンロー含むガールズ・バンドとともに女として過ごすのは愉快だ。けれども、ジャック・レモンが富豪の老人と恋に落ち、本当に結婚する羽目におちいってしまうのは一時的には笑えるが、グロテスクだ。
アパートの鍵貸します』(1960,ビリー・ワイルダー)はそうした逆転的要素はみられない。蓮實重彥は『ハワード・ホークス映画読本』(山田宏一、国書刊行、2016年)において、「ぼくはワイルダーって好きなのはあるんだけど、やはりギャグが泥くさい」(P276)
とするようにミュージック・マンやモンローといったポップ・カルチャー的な冗談が多い。 しかし、そこにあるのは資本や権威主義に踊らされる、男女の悲哀が描かれる。
摩天楼、巨大なオフィスはまさしくその象徴だ。上司たちは気の弱い社員を利用し、家族がいるにも関わらず何度も不倫をし、感情もわからずに金で解決する。劇中の「彼は利用する人なの」という台詞はこの作品の根底に流れるテーマを示している。単純な喜劇ではない。
 『雨に歌えば』(ジーン・ケリー,1952)もまたミュージカル喜劇に隠されたテーマがある。時代との闘いに適応した者、敗れた者、勝った者が登場する現実的な物語が描かれていることによりただの夢物語に終らない仕組みを作っている。
五、60年代から70年代の喜劇
 『おかしなおかしな世界』(1963,ブレイク・エドワーズ)は私利私欲に走る大衆を描いた、荒唐無稽な変人喜劇に終始している。その証拠に三馬鹿大将やバスター・キートンといったその道の先駆者を出演させ、敬意をはらっている。
『M*A*S*H マッシュ』(1970,ロバート・アルトマン)は違う。カウンターカルチャー下におけるブラックユーモア作品でもあり、スクリューボール・コメディの変形ともいえる。登場人物が重なるように喋るところや、「ゲイかもしれない」と悩む人物が登場するのはこれまでに指摘した特徴の通りだ。それのみに留まらず当時のベトナム戦争朝鮮戦争に置き換え、ついでにジャパン・バッシングをしているところが本作品の主題であろう。
六、まとめ
喜劇は単に人を笑わせるのではない。時代ごとにとる形態は変われども、現実では起こりえない逆転の状況を作り、社会的政治的テーマを内包した風刺劇の面をもつ。それは全時代変わらない特徴である。