dreamfact0ryのブログ

映画を勉強中。物置として使う。由来はプリンスの没アルバムから。

論文 『西部劇 四つの時代』

一、はじめに

  西部劇を1900~‘50年代を<神話>、‘50~‘60年代を<個人>、‘60~‘70年代を<解体>、‘80~現代を<再構築>として四つの時代に分類できるのではないかと考えた。以下、その視点を持つ根拠となった作品を並べ、時系列順に西部劇の移り代わりを辿る。
二、神話の時代
歴史の浅いアメリカ人は開拓史を重要視していた。つまり、西部劇はまさしく神話なのだ。
 1930年代、この頃の西部劇には強い男、善の勝利、雄大な自然が映し出される。だがそこにはネイティヴ・アメリカンも、黒人もいない。西部劇の実態は過酷なものであった。猿谷要著の『物語 アメリカの歴史』(中公新書、1991)によると、チームで数千頭の牛を運ぶ〈ロング・ドライブ〉は「(前略)食糧の補給、天候の激変、インディアンや開拓農民とのトラブルなど、厄介な問題が山積みだった。肉と豆と乾しリンゴばかりの食事で、入浴もできず、落雷や竜巻のため牛の大群が暴走を始めて行方がわからなくなることがあった」(P121)とされている。
 いわば誇張され美化された虚構の世界と捉えることができる。しかし、これが神話のとるべき姿なのだ。神話の目的というのは政府や王朝の成立を正当化し、国民の拠りどころとすることだ。必然とプロパガンダの要素が含まれている。
 西部劇の顔役たるジョン・フォードは『真珠湾攻撃』(1942,ジョン・フォード)、ジョン・ウェインは『グリーン・ベレー』(1968,ジョン・ウェイン レイ・ケロッグ)、ハワード・ホークスは『遊星よりの物体X』(1951,クリスティアン・ナイビィ)においてそうした思想に偏った扇動的映画、プロパガンダ映画そのものを制作もしている。
 また、西部劇どころか映画史に残る作品『国民の創生』(1941,D.W.グリフィス)もまたKKK復活させたプロパガンダ映画だ。黒人と白人の混血である醜いムラト―が人々をたぶらかし、政府転覆を狙うという悪質かつ幼稚な妄想と都合の良い歴史観から成り立っている。監督D・W・グリフィスと原作『クランズマン』の作者トーマス・ディクソンは親からの口伝に影響をうけていたそうだが、当時の建国がいかに歪曲したものかうかがい知れる。(町山智弘 『最も危険なアメリカ』(集英社、2016年))。
 また『駅馬車』におけるジェロニモの扱いも不当だ。ジェロニモはクック将軍の言うことを守り平和に暮らしていたのに、どこからか噂をたてられて追われる身となったのが事実だ。にも関わらずまるで怪物かなにかのような扱いで描かれている(ディー・ブラウン 『我が魂を聖地に埋めよ』 下巻 草思社 1975年 (P92~93))。しかもネイティヴ・アメリカンには台詞すら与えられていない。ただ襲い、ただ殺される。ジョン・ウェイン一行は害虫駆除のように先住民族を虐殺する。それが平然と行われているのだ。
三、個人の時代
 しかし、西部劇はいつまでも神話を描く真似はしなかった。1952年、正義を貫く個人の映画『真昼の決闘』をつくりあげた。仲間を引き連れた大悪党との闘いが待っているにも関わらず、主人公の保安官を誰も助けてくれないという〈個人〉の話で、脚本フレッド・ジンネマンは1950年代レッド・パージに逆らい、政府と業界への不信を込めて描いた。『捜索者』もまた復讐に燃える暗い〈個人〉の物語で、作品がリアリズムを持ち始めてくる。
 それから1960年代に入ると、『リオ・ブラボー』(1959, ハワード・ホークス)と『荒野の七人』(1960,ジョン・スタージュ)がまた明るい活劇に再び西部劇を回帰させ始めるも、キング牧師ケネディが持ち込んだ新たな時流にはのれずに廃れていった。ようやく西部劇の嘘に気づき、観客は敬遠し始めたのだ。
四、解体の時代
 そこにマカロニアン・ウエスタンが登場する。セルジオ・レオーネが〈神話〉を〈解体〉し始めたのだ。『荒野の用心棒』の主人公は敵と女を取り違えて殴り倒すという本質は情けない小悪党だし、ライフル対ピストルの逸話を簡単に覆してしまう。『夕陽のガンマン』には女性がほとんど消えて、未来のない作風になった。
 西部劇のスタイルで映画を撮るジョン・カーペンター監督は『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』(フィルムアート社、2004)にてこう語っている。「西部劇に対するレオーネのアイロニーに魅力を感じたことは一度もない。(中略)皮肉るのは簡単だ」(P181)。
 なぜ、ここまで西部を壊すか。この徹底した精神はレオーネの経験からきている。レオーネは日本と同じ敗戦国イタリアの人で、進駐軍によってそれまで憧れていたアメリカ像を覆された経験があるのだ(『セルジオ・レオーネ―西部劇神話を撃ったイタリアの悪童』P34,35(フィルムアート社、2002年))。
 『明日に向かって撃て!』(1969,ジョーイ・ロイ・ヒル)はベトナム戦争の最中、ニュー・シネマの時流の下においてつくられた。主人公である二人組の強盗は神話的で痛快な活躍をみせるも、列車会社に雇われた一流の刺客たちに追い詰められてしまう。二人組はなんとか南米へ下り、一旦逃げ切るもののまた悪事を重ねてしまい、最期には警官隊と軍隊に蜂の巣にされてしまう。
 実はこの追手は、〈時代〉を象徴しているのだ(監督・作詞・製作・撮影の音声解説より)。迫りくる時代の潮流によって伝説は容赦なく流される。にもかかわらず、監督のジョーイ・ロイ・ヒルは二人組が軍隊の凶弾に撃ち抜かれるさまを静止画像にして誤魔化した(監督・作詞・製作・撮影の音声解説より)。結果、同時期に制作された『ワイルド・バンチ』(1969,サム・ペキンパー)に比べ、神話を解体することに失敗してしまっている。
五、再構築の時代
 ベトナム戦争が終わり、クリント・イーストウッドは西部劇の〈再構築〉を始める。『許されざる者』(1992,クリント・イーストウッド )は人々が自らの正義を振りかざす個人の話だし、『ペイル・ライダー』(1985,クリント・イーストウッド)は神話は神話でも聖書からの引用を行った。その功績はイーストウッドが賞をとったことからも。
 そして、現代。『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012,クェンティン・タランティーノ)『レヴェナント 蘇りし者』(2016,アレハンドロ・G・イニリヤトゥ)にはアメリカの暗部が描かれている。アメリカの罪であるネイティヴ・アメリカンへの攻撃、奴隷制度、差別主義(KKK)を暴いた史実に忠実かつ、個人の復讐をテーマにしている。これもまた再構築の作品群であるといえるだろう。
六、まとめ
 西部劇は変化した。時代が変われば、人も変わる。だが、過去に回帰することはできない。現代の西部劇は再構築の時代であると大それたこと書いたが、再構築されたものからこれ以上なにが産まれるのか。

 新しい西部劇、もとい新しい映画をこれより先の未来に作りあげることができるのかと不安になってしまう。解体をするにもまだ壊しかたを覚えてはいない。