dreamfact0ryのブログ

映画を勉強中。物置として使う。由来はプリンスの没アルバムから。

考察 『フィルム・ノワール』

 

 

1フィルム・ノワール表現主義

フィルム・ノワールとはアメリカ映画の一連の作品群を指した言葉である。その様式は①スタジオ撮影 ②表現主義的空間設計 ③戯画化された登場人物 ④ファム・ファタルといった要素から成りたっている。これらの特徴は表現主義映画に源流がある。  表現主義とは内面心理を作品に投影する傾向で、エドヴァルド・ムンクの『叫び』やエゴン・シーレの『紙に手を置く座る女』はその代表だ。それらは作者の想像力によって描かれたイメージの世界である。

そうした技法を映画に応用した『カリガリ博士』(1919)。狂人の独白を描いた作品だ。全てが妄想の中であるから、人物はみな幽霊のように色白で、神経質で大仰な身振りをする。建物や家具は歪み、光と影は造られ、人工的な空間を作りあげている。内的狂気を表象した、まさに表現主義的作品である。

それらを応用したのがフィルム・ノワールの様式である。これら一連の作品はスタジオで撮られていた。つまり、ドイツ表現主義フィルム・ノワールが映画史にもたらしたのは閉じ込めることである。事実、表現主義フィルム・ノワールの登場人物は都市や枠に閉じ込められている。それは、かつてリュミエール兄弟が自然の光の中、現実を切り取っていたのとは対をなした人工の美である。映画が解放されるのには、フランスで巻き起こるヌーヴェル・ヴァーグの潮流を待たねばならない。特にジャン=リュック・ゴダールが実践した『勝手にしやがれ』におけるフィルム・ノワールからの再構築は鮮やかだ。  また、先ほど表現主義作家として挙げたエゴン・シーレに影響を与えたグスタフ・クリムト。彼はフィルム・ノワールにおいても描かれた、〈ファム・ファタル〉と〈理解されぬ女〉を題材としていた。 『時代が病むということ』(日本評論社、2006年)において鈴木國文が「この時代、女性に対する漠たる恐怖が芸術活動の広い範囲に蔓延していた。(中略)「女性という謎」という定型的表現、運命を決するファム・ファタルというイメージ。我々が今、神経症の青年たちに多く見出す、「男性の女性恐怖」と「女性の憂うつ」というスタイルは、この時代に定着した典型にその源流を求めることができる」(P61) と述べている。 

フィルム・ノワールとされる作品における女性像の多くはこの傾向を示している。彼女らファム・ファタルは男性視点からの偏見に過ぎない。そうした妄想と現実のすれ違いから、男性主人公は破滅するのだ。

以下、課題リストに掲載された『マルタの鷹』(1941)、『疑惑の影』(1943)、『飾り窓の女』(1944)、『ローラ殺人事件』(1944)、『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(1946)、『三つ数えろ』(1946)、『上海から来た女』(1948)、『サンセット大通り』(1950)、『狩人の夜』(1955)、『拾った女』(1953)、『現金に体を張れ』(1956)を〈イメージ・ノワール〉、〈アクション・ノワール〉、〈聖母ノワール〉それぞれを分類し、記述する。

2、イメージ・ノワール

  最初期のフィルム・ノワール作品として『マルタの鷹』(1941)が挙げられる。本作は探偵サミュエル・スペイドが〈鷹〉を得ることよりも、迫りくる悪漢たちとファム・ファタルが誘う破滅への誘惑をいかに凌いでいくのかに目移りする。それは本作の〈黄金の鷹〉は、アルフレッド・ヒッチコックフランソワ・トリュフォーが『定本 ヒッチコック トリュフォー 映画術』(晶文社、1997)で言うところの〈マクガフィン〉(P125~127)に過ぎないからであろう。映画が3分の2を過ぎたあたりで〈鷹〉の正体は明かされ、探偵が駆け引きに打ち勝った高揚感のまま幕切れを迎える。愛に身を任せず、自らを律するハンフリー・ボガートの男性像はまさにハードボイルドであった。原作小説『マルタの鷹』はスペイドと共同経営者の妻との不貞の場面が多いが、本作は省略されている。ヘイズ・コードの影響であろう。

  『飾り窓の女』(1944)は〈イメージ・ノワール〉の典型である。ショー・ウィンドウの中の絵画から出てきたジョーン・ベネット演ずるファム・ファタル。彼女がゆすり屋と対峙する場面は女性不信=人間不信の要素が特に凝縮されている。女が毒薬を入れたことが気づかれてしまわないか、女がゆすり屋と一緒に逃げ出してしまわないかどうか。共感の対象である男性主人公が何度も揺さぶりをかけられ、十分に感情を移入させられたうえで進行する場面に観客は息を飲む。  劇中の事件は結末において夢であったとされる。が、本作は現実を描いているのではないか。全編が主人公の視点の中で進行する本作において、先ほどにも挙げたゆすり屋との場面は客観的視点で描かれる。劇中の事件が夢ならば、主人公を抜きにして話は進行しない。つまり、本作品は客観的な現実を見せているということになる。同時代のフランク・キャプラ『素晴らしき哉、人生』(1946)も同様の語り口をしていることからそう捉えた。

同年の『ローラ殺人事件』(1944)もまたイメージに囚われた男たちの物語である。ローラの肖像画は常に存在感を放ちながら、画面に配置されている。特に新聞記者ウォルドは哀れである。自分の思い通りにならない、ローラと心中することで結ばれようとする自分本位の男だ。この空回りした恋愛劇は『めまい』(1958) や『ELLE』(2016)にも継承された構造である。

『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(1946)もまた〈イメージ・ノワール〉だが、本作はより悲劇的で、平等である。男と女は愛し合っているが、お互いを信じることができない。二人は主人を裏切ったという共体験は付きまとう。最後、和解したと思いきや偶然の破綻によって全てが水泡に帰すところなど、見てはいられない。牢屋の格子から伸びた影の効果が『暗黒街の弾痕』(1937)似ていて、主人公の状況と心理を巧みに表現している。他のフィルム・ノワールの傾向にあたる作品は女性不信=女性蔑視に繋がりかねない描写であるのに対して、男女ともに不信に陥るのは珍しい。 

 ビリー・ワイルダーが監督した『深夜の告白』(1944)と『サンセット大通り』(1950)は両作品とも、拳銃を用いたサスペンスが巧みだ。前掲書においてヒッチコックは「観客はつねに、危険にさらされた人物の方に同化しておそれをいだくものものなんだよ」(P60)と述べている。主人公の末路を知る観客は、物語終盤にファム・ファタルが拳銃を手にする場面を見た時、画面から目が離せなくなるのだ」。  『深夜の告白』(1944)の主人公ネフは二つの選択肢が与えられている。ローラかギース、男か女。一方はファム・ファタルがもたらす破滅、もう一方はホモ・ソーシャルへの定住。同僚ギースは義理堅く、愉快さが備わった光であるが、ローラは男を利用し殺人を前にしても表情を変えない闇だ。観客はその間をさまようネフに感情移入をしてしまうのだ本作のローラは〈ファム・ファタル〉と〈理解されぬ女〉を持ち合わせた女性蔑視の極めつけのような描かれかたをしているのが特に印象的である。

 『サンセット大通り』(1950)は枠映画であり、ワイルダ―の「映画は映画でしかない」という告発である。グロリア・スワンソン演じるノ―マ・デズモンドは自らをゴシック調の館に閉じこめる。そして、映画から写真、絵画に至るまで、枠に納まった過去の栄光にすがる。  私は、ワイルダ―がドイツ表現主義作品においてたびたび題材とされた怪奇映画を意識して本作を製作したのではないかと考える。まず、「主人公の車が故障し、止まった場所が怪物の住まいであった」というのは、後の怪奇映画『死霊の盆踊り』(1965)や『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)などにも見られる筋立てだ。それにスワンソンとシュトロハイムの関係は『フランケンシュタイン』(1931)の博士と助手の関係と似ている。加えて、ドイツ表現主義映画が製作されていた時代、映画は伴奏があったもののサイレントであった。本作が撮影された頃、それらは発声映画にとって代わられていた。劇中、スワンソンは度々サイレント映画を表象した演技をみせる。が、発声映画でそれをみせるのは滑稽であり、不気味である。なぜなら、それらは映画から排除された亡霊のようなものだからだ。  そう考えると、語り手である主人公もまた亡霊だ。グロリア・スワンソン=ノ―マ・デズモンドやバスター・キートンといった往年の名優たちは「蝋人形」と称され、その他セシル・B・デミルエリッヒ・フォン・シュトロハイムらも殆ど本人と変わらないパロディ的役回りとして現れる。全員が鬼籍に入った現在から見ると、我々が見ている映画というものは亡霊であり、過去のものであるということを痛感させられる。

 『上海から来た女』(1948)は風変わりな舞台が多い。フィルム・ノワールの様式では都市が主舞台となる。が、本作は南国の照りつける太陽や海、煙たい中国人街、奇術小屋といった奇想な空間で物語が展開する。オーソン・ウェルズ演じる主人公は終盤事件から不必要な存在になってしまうのも相まって、観客は疎外感を受ける。そして、最後の鏡の場面にて文字通り全てが砕け散り、主役は朝日に向かって消えてしまう。この時、我々が完膚なきまでに翻弄されてしまったことに気づくのだ。

3、〈聖母・ノワール

 アルフレッド・ヒッチコックの『疑惑の影』(1941)とチャールズ・ロートンの『狩人の夜』(1955)は共通点が多い。例えば、殺人者の人物像。『M』(1931)に登場する殺人鬼は黒衣を纏い、男性器のメタファーたる飛び出しナイフを持った性的不能者である。それは両作品と符合している。特に『狩人の夜』(1955)は歌まで歌うところなど、明らかに『M』(1931)の口笛を意識している。そして、両作品の殺人者は一種の信念を持って行動し、煙を吐く黒い乗り物に乗って町に近づく。これらの描写は、彼らが悪魔であるということを表している。その悪魔に対立する女性は、賢明でゆるぎない聖母のように描かれる。多くのフィルム・ノワールと称される作品は女性不信を表しているが、正反対である。その為か、両作とも救いのある結末を迎えるのが興味深い。

4、〈アクション・ノワール

 『三つ数えろ』(1946)は粗筋が気にならないというか、忘れてしまうくらい素晴らしいシーンの連続だった。本作のハンフリー・ボガード演じる探偵フィリップ・マーロウは冒険活劇の英雄のように勇敢で、女性からは引く手数多だ。『マルタの鷹』(1941)のダシール・ハメットが描いた探偵像とは異なり、連続活劇のように楽しめる。ちょうど、ハリソン・フォードが演じたインディ・ジョーンズ教授は明らかに影響を受けているだろう。フォードは『ブレードランナー』の女レプリカントに近づく際にジェリー・ルイスの真似をするのだが、それは本作におけるボガードが書店を訪ねる場面にオマージュを捧げた演技からも言える(『ブレードランナー ファイナルカット』の音声解説より)。

 本作は人物のパースペクティブが平等である。ボガードが「意外と背が低いのね?」と言われるのだが、低く見えない。意図された配役であろうか。

  サミュエル・フラーの『拾った女』(1953)は痛快であった。ビールを海に冷やしたり、箸で現金を摘んだりする所作はとにかく粋である。スリ魔のスキップかポシェットから中身を取り出す場面やビール瓶を女の顔にかける場面のような性的な描写も挑戦的で印象深い。
技術的な面でいえばレンズ・フレアやピントのぼけが所々見られる。だが、それを補うほどカメラが動いて飽きさせない。他には、フィルム・ノワールの傾向にある作品には少なかった接写が多かったのも気になったの点である。

 『現金に体を張れ』(1956)はフィルム・ノワールというよりはギャング映画に近いのではないかと考える。村山匡一郎が『映画史を学ぶ クリティカル・ワーズ』において「観客はギャング映画のなかの反社会的人間を受け入れるとともに英雄視するようになったが、これは主人公が底辺から頂上をめざすギャング映画もまた、屈折した様態とはいえ、一種のアメリカンドリームを表現していたのである」(P118)と述べていて、本作はそうした構図が成りたつ。登場人物はみな職種や人種の異なる個性あふれる面々ばかりだ。これまでのフィルム・ノワールにおける悪人は『マルタの鷹』や『死の接吻』のように共感の余地は一切なかった。けれども、本作にはそうした傾向が見られないため、ヘイズ・コードの形骸化が進んできたことが伝わる。本作は室内を舞台とした場面が多いが、固定されたカメラが平行に動き登場人物を追う横に長い美術設計をしている。『マルタの鷹』のようなマスター・ショット、バスト・ショット、クロース・アップのモンタージュとは異なった撮影で、鮮やかであった。この技法は同監督『シャイニング』(1980)の主人公ジャックが、亡霊たちの開く舞踏会に迷い込む場面にも用いられていたが、監督スタンリー・キューブリックの提案によってこした撮影がされたのではないだろうか。連続した場面にリアリズムを感じた。 

感想 『めまい』『ザ・ショック』『サスペリア テルザ』

  この3本を借りて見てみたら、毛色のそっくりな映画ばかりで驚いた。

 まずは『サスペリア デルザ 最後の魔女』から。ダリオ・アルジェントの大ファンだ。場面場面の人物から構図、色づかいや美術まで美しい。それに、五感を刺激するような描写が加わって見る者を虜にする。ただ一つ、脚本に関していえば整合性もなにもないところが欠点であり、また魅力である。
 しかし、本作はいかんせん美しくもなかったし、ショックも感じなかった。『サスペリア』や『インフェルノ』に比べれば下劣である。臓物や乳房がポロポロと出てくる。確かに宗教画における地獄のような描写を意識しているのはわかるが、先にあげた二作品を継承した集大成であるとは思えない。アルジェント・ファミリーが総出演しているところやラストの展開、喉をかっ切る場面(三回以上)、蛆虫水路や組み立て式の槍などといったお家芸は楽しく、愛おしい(娘アーシア・アルジェントのシャワー・シーンを俯瞰で撮るところや、その母親役にダリア・ニコロディを登場させているのは狂気じみているが)。ともかく、以前のような迫力がなかったのが残念であった。
 その師たるマリオ・バーバの『ザ・ショック』も見た。場所が館から一歩も出ない上に、少年がずっと嫌がらせをするだけだから飽きがくる。脚本も台詞が一つも入ってこないほど印象に残らなかったし。けれどもピアノの鍵盤に剃刀の刃仕込んだり、シャッターの紐がいきなり切れて落ちてきたりするのはクリシェではあるが見応えがある。また、少年が亡霊の父親と入れ替わったり、鏡を用いた場面も華麗であった。上記のような予算を抑えつつも工夫があるところは見習いたいところであるし、素晴らしい。タイトルの割にはショック不足だったが。
 そして、最後にアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』。良くも悪くもアルジェントに近い。プロットは滅茶苦茶なのだが、映像美は半端ではない。めまいズームはもちろん、ディゾルブの使い方はまさに映画史上に刻まれるほど巧みである。イメージに囚われ、それを追い求めるジェームズ・スチュワートに不気味さを覚えるも、感動してしまった。
 巨匠は変態ばかりであることを再認した。

感想 『北北西に進路をとれ』

 ケイリー・グランドというのは名采配だ。ラッシュ・モア山をまさか登るとは思わない(『リッチー・リッチ』についてはコメントを避ける)。よくよく考えると荒唐無稽なはずである。それでも気にしない主義だが、全く違和感を感じなかった。『ET』にそっくりな捜索シーンもあったし、スピールバーグはヒッチコックフォロワーというか近しいものがあるのを改めて認識した。ほうぼうで書かれていることだが。
名シーンと名高いセスナ機とのチェイスがストーム・トルーパー並みの運転で意外と単調なのが肩透かしだったが、オークションの場面とラストのカット繋ぎに魅せられた(列車とトンネルのシーンは笑える)。『トリュフォー ヒッチコック 定本』にも書かれていたが、このクールな戯れというのは映画には欠かせない。
 とにかく、イカした台詞回しが多いからメモをした。多分、引用するだろう。ヒッチコックをクサすことなんて死んでもできない。

感想 『三つ数えろ』

  ハワード・ホークスの映画は合わないと思っていたが、これは文句のつけどころがない。 粗筋が気にならないというか、忘れてしまうくらい素晴らしいシーンの連続だった。場面転換が多いし、連続活劇のように楽しめる。ボギーやバッコールの他にも無数の登場人物が刹那的に現れるが、印象に残る。お気に入りの人物は、バニーガール2人と『現金に体を張れ』の抜けた男役が同じような役柄で出てくるところ。『ゾンビ』に出てくるゾンビのようだ。何回でも見られる。
 ホークスは人物のパースペクティブが平等な気がする。ボギーが「意外と背が低いのね?」と言われるのだが、低く見えない。反対に、久しぶりに見た『サイコ』は明らかにパースペクティブの操作が多くて違いを強く感じた。

❇︎追記

 あと、ボギーがねちっこいオタク風に調査する場面がある。多分、ケーリー・グラントのパロディだろうが、『ブレード・ランナー』のハリソン・フォードとデジャヴが起こった。ちょうど買ってきた『ブレード・ランナー ファイナルカット』を音声解説付きで再生したら、やはりオマージュを捧げているそうだ。それもハリソンときたらジェリー・ルイスの真似をしているとか! わからないよ、『ゴースト・ハンターズ』のカート・ラッセルばりに。

 

俺は見ている! 『9月』

 アメリカの夜

 エイリアン3(再見)

 大いなる

 コンドル

 サイコ(再見)

 ショック

 サスペリア(再見)

 サスペリア 最後の魔女

 第3の

 血のバケツ

 犯罪王リ

 ブレード・ランナー ファイナルカット

 北北西に進路

 三つ数

 めまい

 郵便配達は二

 ローラ殺人事件

 

✴︎ どうでもいいが、サスペリアを今月で8回は見た。とにかく美しく、面白い。

  

感想 『大いなる幻影』

 ジャンル映画や各国の映画を食い入るようにみるんだ。成長や研究のためだ に、メモをしながら。理論的な結論が出たらメモは無くなって、新しい知識が頭を埋めてるーークェンティン・タランティーノ

 

 映画を見て、いちいちブログやらなんやらに書くのは愚にもつかない行動だと半分わかっている。だが、映画を見て考えることをしないよりは、するほうが役に立つに決まっている。映画に参加することは大切なのだと思う。
 身の回りのシネフィルと違って嫌いな映画・監督が多いが、もっともっと見なければならない。
 ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』を見て、いささか衝撃を受けた。画面に迫力があるが自然だ。人物に立体感があって、構図がどこをとっても素晴らしい。カメラの位置が高く、見下ろしになっているからか? とにかくカメラがよく動いて飽きのこない。
 色々と『大脱走』に似ていた。トンネルの穴を掘って畑に捨てに行ったり、営倉送りになったりする。昔に見た時、あの冗長さに参ってしまった。あっちのほうははっきりいってドナルド・プレザンス以外覚えていないし、みる気も起きないがこちらのほうは見直したくなる。
男ばかりの登場人物たちは、造形も等しく細かい。中でも、エリッヒ・フォン・シュトロハイム演じる大尉は登場時間が少ないのにも関わらず、強く印象に残った。『サンセット大通り』でも怪演であったが、本作も素晴らしい。
 フィルムノワールのような妖艶な女が出てこない、ホモソーシャル映画を久々に見たから響いたのかも知れないが。西部劇に立ち返って見てみるのも悪くないような気がしてきた。 

  監督のルノワールは、あのピエール・オーギュスト・ルノワールの息子で、女のために映画を始め、映画の資金に父親の絵を売ったとかそういう俗な話しか知らなかった。が、本作で魅了された。カイエ・デュ・シネマ乞食みたいだが、正直にそう思ってしまったからには仕方がない。『ゲームの規則』を楽しみにして、購入ボタンをクリックした。

感想 『elle』

『elle』の撮影は実にドキュメンタリーチックだ。手持ちカメラで撮られていて展開が素早く、画面がときおり揺れることによって強い現実感を与えられる。そのため、グロテスクな描写の数々がより鮮烈だった。特にクロースアップや音楽が使われているわけでもないのにも関わらず。
なぜ、ミシェルは頑なに警官を呼ばなかったのか。もちろん、これまで築き上げてきた地位や社会から受けてきた仕打ちを考えれば当然といえる。
 これは私見だが、ミシェルは父親と犯人を重ねてしまったのではないか。ミシェルは暴力的で倒錯した愛を父から受けていたために、犯人にエディプスコンプレックス的な思いを抱いてしまった。だから、正体を掴もうと通報する気にならなかったのではないか。
私は『elle』から生き地獄を垣間見た。